シブヤ氏が「Gusto-味の追求」という事で、リバプールよりコメントを寄せていますが、日本語の「味-あじ」という言葉は、いろんな意味を含んでいます。そのものズバリ食べ物や飲み物の「味」。体験して得た感触等も「味」と言いますね。それ以外に「物事を深く知る事によってはじめてわかるおもしろみや、深いところに潜んでいる素晴らしさ」のことも「味」という言葉で表現します。
ここで食べ物やクルマの「味」について述べようなどとは思ってもいないのですが、
シブヤ氏がこれからやっていこうとしている事に対して一言付け加えさせていただければと。
当たり前の事ですが、人はモノを食べなければ生きていけません。そこで何を食べるのかが大きな問題となりますが、その部分はとってもプライベートな問題なのです。美食家のウンチクやナチュラリストの素材がど〜のこ〜のって話は置いといて、この食べるというとってもプライベートな問題は、その人の成熟度に直結しているような気がします。何を食べても生きてはいけるが、それだけでいいの? 食べることの喜びをおろそかにすることは、生きる喜びをそうすることに繋がらないの?って。プライベートな問題だけに余計に怖いですよね。
クルマも同じですね。移動手段と考えれば動きさえすればいいのですが、それだけでは物足りない人が沢山いるから、シブヤ氏は今ヨーロッパまでクルマを見に行ってるわけです。
所有する喜び、走らせる喜び、手間をかける喜び・・・いろんな喜びがあります。
「食」も「クルマ」も、「味・・物事を深く知る事によってはじめてわかるおもしろみや、深いところに潜んでいる素晴らしさ」・・・これがあって初めて「喜び」と呼べるのではないのでしょうか?
そういう意味でヨーロッパの人たちやクルマから、学べる事が沢山あるような気がします。
シブヤ氏が世田谷に「Gusto-味の追求」をする空間を作ろうと考えている事は、
とっても自然な流れであるし、とっても楽しみであります。